2011年2月10日木曜日

画家海野次郎―その人となり

半プロフィール
画家海野次郎の絵に出会ったのは、2005年の三鷹の画廊での個展でした。学窓のネットワークから案内があり出かけました。驚いたのは、水墨画がいわゆるイメージした水墨画とは違っていたことでした。この線はなんだろう、と思うくらいのインパクトと抽象で迫ってくる水墨の世界はなんともいえず、考えてしまうほどでした。
「間」なのかと思いを回らしながら。
海野次郎画塾に通うこと5年、「じぶつ」を見ながら水墨画を描いてみると、「間」は絵の構図の中の余白ではなく、その物との「間」であったりもします。と私なりの、思いです。描いていると頭で考えていたのとは違う変化に気がつくのです。
画塾では、茗荷、殻つきピーナッツ、流木、石、野のゆり、秋草、すすき、鯛、柳かれい、干し柿など、モチーフは多様ですが、ユニークです。それぞれと対話があるのです。
敢えて、ここで、山水、裸婦が中心にあるというのは、「人間とは、何なのか」という問いかけをしながら、常に自然や人との対話が彼の中に存在しているのではないだろうかと思います。根源的な問いなのではないだろうかと思うのです。

2011年2月9日水曜日

神庭・御嶽(うたぎ)としてのギャラリー



八重洲ブックセンターのなかのギャラリーを下見した際、Kさんがパネルの後ろや荷物の中をかき分けて全体像を探っていましたよね。あの時あそこの場所は結界だと思ったのです。森の中の結界です。

巨大な本の森の中をかき分けて進んだ中に、ポッカリと開いた空間。神庭、御嶽、あの内外のガラス面は結界を形取っていると思ったのです。
東京という都市の中の結界です。

立ち木仏というのを知っていますか? 江戸時代の円空仏やその祖形と考えられる奈良時代の行基に関連しての仏像が知られています。それは自然に立っている樹木の中に仏を見るという行法とも考えられます。

裸婦像はそうした立ち木仏として、結界の周りに立つべきではないか?
その奥に御嶽のイビ石や依り代としての岩のように山水図を持ってこれないかと考えています。

山水図には画面の中に「間」があるのでこれを「間」的に処理する必要はないかもしれません。
一方、裸婦図には「間」が意識されていませんので、逆に空間的な「間」を設定する必要があるのではないかと考えています。

花鳥図はブッシュです。まぁ、この中で休んでお話でもしましょう。

などと、かってにイメージしていますが、いかがでしょかね?

2011年2月8日火曜日

山水と裸婦

展示の空間を考えるにあたって、それぞれの絵画がその周囲に何を求めるか、を問いかけることが重要なのかな、と思います。画面の中の「間」を感じ取ることによって、外に必要な「間」を生み出していくことが私のやるべきことでしょうか。

山水については、絵画自体に様々な「間」が存在することは明らかだと思うのですが、紙のほぼ中央に描かれる、裸婦については、どのように「間」を捉えるべきか、考えています。

縦長の媒体に描かれていることを考えると、作品=人間と考えて、会場を歩いていただくように配置するのがよいのでしょうか。

山水は山=鉛直ライン、水=水平ラインが組み合わさることによって、海野さんの内面の風景が示される、建築図面でいえば「断面図section」の役割を担うものかもしれません。

切り取った断面ですから、切り取り線を少しずらすことによって異なった様相を呈します。それらをレイヤーをなすように平行に配置し、積分すると全体を捉えることができる、という考えに基づいて展示空間をつくることもイメージできます。

単純にイメージすると、山水と裸婦は対称をなすように存在しますが、そこに花鳥がどのように入り込んでくるのか、楽しみです。

2011年2月6日日曜日

山水シリーズ

墨を摺り始めました。手を動かすと、とたんにいろいろと動き出しますね。

今回展示したいと思っている絵画ですが、まずは私の絵画のだいたいのところを見てください。

せせらぎの里美術館 会場風景


次に、昨年やってみて、そこで止まってしまった山水画を見てください。

ギャラリー門 会場風景

これの、もっと大きな物を描きたかったのですが、これでは駄目だったのです。


そこで、今考えているところを、デッサン段階ですがお見せします。
縦140センチのつもりです。とすると、横が280センチくらいになりますね。これが一番大きな作品に成ると思います。

1/16サイズなのでこのままというのではありませんし、描いているうちに変わって来ると思います。

本当は、もっと長くしたいのですが、いまのところ描く場所がないのであります。


後は、全紙の70×140センチの山水画が幾つか加わる予定です。

ただし、まだ計画段階です。取り敢えずの構想です。