増山氏の尽力でユーストリームの番組がいよいよ形として現れてきました。
覗いてみてください。6月26日の放送もお楽しみに。
http://www.ustream.tv/channel/%E6%B0%B4%E5%A2%A8%E6%80%9D%E6%83%B3-2011
実は、私はまだ全体を良く理解していないのですが、ほかの人の手を通して、違った面が見えてくるのが面白いです。
2011年6月12日日曜日
2011年6月1日水曜日
自然の美しさについて
海野次郎さんは、奥多摩に暮らしている。海野さんは、奥多摩の自然を描く。だが、自然は美しいというより、いまわしく恐しいものだ、と語る。
自然の中で暮らす、とはこういうことだ。自然は風景として眺めていればよいものではない。自然とは闘う相手なのだ。
自然が美しいのは一瞬だ、と海野さんは語る。その自然を描く。
奥多摩へ絵を描きに出かける人と根本的に違うのは、この時間性ではないだろうか。観照としてではなく、実践的に関わりを持つことによってしか、この一瞬には出会えない、ということではないだろうか。
そのようにして見い出す美は、文人画家の描く美とは異質なのだろう。おそらくは、宮本武蔵のような武芸者の描く美に近いのではないか。
私は20代の頃、ヨーロッパを数百キロ歩いて旅をした。歩いて旅をすることによって、道端で出会う雑草までもをじっくりと見つめることができるのではないか、と考えたからだ。
しかし、目的はすぐに「明るいうちに次の町へたどり着くこと」にすり替わって、足元へ目線を落とすことすらためらわれるようになった。
歩き終えて、急行列車に乗り、窓から眺めを見たときに初めて、飛んでいく木々の一本一本を見逃すまいとしている自分に気づいた。
愚かな話である。だが、この経験は、自然を美しいと思うのは、自然と直接に関わりを持たないからだ、ということを教えてくれた。
海野さんの水墨画にある、自然の美しさは、上の話とは全く別のものである。それは、生きるために「必要」なものの持つ美しさではないだろうか。
自然の中で暮らす、とはこういうことだ。自然は風景として眺めていればよいものではない。自然とは闘う相手なのだ。
自然が美しいのは一瞬だ、と海野さんは語る。その自然を描く。
奥多摩へ絵を描きに出かける人と根本的に違うのは、この時間性ではないだろうか。観照としてではなく、実践的に関わりを持つことによってしか、この一瞬には出会えない、ということではないだろうか。
そのようにして見い出す美は、文人画家の描く美とは異質なのだろう。おそらくは、宮本武蔵のような武芸者の描く美に近いのではないか。
私は20代の頃、ヨーロッパを数百キロ歩いて旅をした。歩いて旅をすることによって、道端で出会う雑草までもをじっくりと見つめることができるのではないか、と考えたからだ。
しかし、目的はすぐに「明るいうちに次の町へたどり着くこと」にすり替わって、足元へ目線を落とすことすらためらわれるようになった。
歩き終えて、急行列車に乗り、窓から眺めを見たときに初めて、飛んでいく木々の一本一本を見逃すまいとしている自分に気づいた。
愚かな話である。だが、この経験は、自然を美しいと思うのは、自然と直接に関わりを持たないからだ、ということを教えてくれた。
海野さんの水墨画にある、自然の美しさは、上の話とは全く別のものである。それは、生きるために「必要」なものの持つ美しさではないだろうか。
2011年5月23日月曜日
ぎっくり腰
昨夜、ユーストリームを技術的にサポートしてくれることになった増山氏が、試験的に放送を流してくれていた。さすがにしっかりしている。
額工房Art Willからは、張り込みようのパネルの用意が出来たと。表具師・向南堂からは、屏風ができ上がったと連絡も来た。
AS-planの集まりも有った。
多くの人の協力で、いよいよ展示会の形が姿を現してきているのだが、こちらはまだ絵の最終的な構成が見えていない。
だというのに一週間ほど前にぎっくり腰をやってしまい、今日やっと画室に上がる事ができたところだ。こんなことやっている場合ではないのに。
額工房Art Willからは、張り込みようのパネルの用意が出来たと。表具師・向南堂からは、屏風ができ上がったと連絡も来た。
AS-planの集まりも有った。
多くの人の協力で、いよいよ展示会の形が姿を現してきているのだが、こちらはまだ絵の最終的な構成が見えていない。
だというのに一週間ほど前にぎっくり腰をやってしまい、今日やっと画室に上がる事ができたところだ。こんなことやっている場合ではないのに。
2011年5月16日月曜日
2011年4月22日金曜日
自然と都市
展示会までの時間が迫ってきたので、グリッドフレームの田中、久保氏、AS-planの渡邊氏と会合を持つ。
少し遠慮を取り払いつつと云ったところだろうか。なにしろ、やるべきことはやらないとならないし。
都市と田舎(自然)について少し話をする。
東京駅の前に、グリッドフレームによる空間を出現させるということの、根本的な意味だろう。
私は山の中に住んでいるが、一番注意しているのは都市の消費的な価値観で自然を見ないことだ。
積雪、崖崩れ、吹き荒れる風、そうした事どもに恐れつつ、敏感に反応して暮らすことが、奥多摩に住む価値なのだ。東京という自由空間へは3時間というフィルターを通過してでかける。
もちろん厳しい自然は、美しく、豊かな自然をも与えてくれる。しかし、それは一瞬のことなのだ。
田舎の地域社会は安定的で束縛の強い社会だ。
それに反して、町や都会は自由を謳歌する空間であったはずだ。
しかし、貨幣(マネー)がそもそも自由のための道具であったにも関わらずに、人を束縛する道具に成り果てていることと同じように、合理化、効率化されることで、都市もまた自由空間であることを失っている。
場は呪術者によって再生されなければならず、社会もまた再生されねばならない。そうした呪術者を芸術家と呼ぶ。
2011年4月17日日曜日
2011年4月11日月曜日
案内状を入稿しました
永らくこのブログの更新を中断していました。
東日本の大震災とそれに続く余波の中で、いろいろのことを考えていました。平静であろうと思ってはいても、心の深いところで大きな衝撃を受けていることがわかります。
今できることは、事態に対応しながらも、たんたんと与えられた仕事を進めて行くことだろうと言い聞かせています。
大切なのは、人間として生きることなのだと思うのです。
今日、案内状の入稿をしました。
東日本の大震災とそれに続く余波の中で、いろいろのことを考えていました。平静であろうと思ってはいても、心の深いところで大きな衝撃を受けていることがわかります。
今できることは、事態に対応しながらも、たんたんと与えられた仕事を進めて行くことだろうと言い聞かせています。
大切なのは、人間として生きることなのだと思うのです。
今日、案内状の入稿をしました。
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